第四集 「史跡として残るむかしばなし」

愛宕サマの焼観音

 むかしむかし、今から二、三百年も前のことだろうか。

 ある年、五幸山一帯が大きな山火事になったという。 火の手が上って間もなく、山一面はたちまち火の海となってしまったそのときであった。長く尾を引いて一つの大きな火の玉が五幸山から東の方をむいて飛んできた。山火事を見ていた里の人達は

「御山の火事で大きな火の玉が飛んだぞう」

 と大さわぎになった。そして

「これは何か悪い知らせではねいのか」

 などと 口から口に伝わって、里人達を恐怖のどん底に落し入れた。

 その玉が、どうも愛宕さまあたりで消えたらしいということで、その日の翌日元気な里の若者達が、オッカナビックリ恐る恐る愛宕山さして登っていったのである。頂上はいつもと同じように静まり返り、松風のみがヒューヒューとなっているのみであった。

 ところがお宮の片隅にある小さな、なかば傾きかけた行屋のお灯明台を見て一同はアッと驚きの声を上げたのである。なんとそこには、木像の下半分が焼けこげた観音様が一体あるではないか。

 そしてその傍の大石の横にある松の大木の根元には、飛んできたときに突き当ったと思われる子供の頭ほどの窪みができていた。里では 「ゆんべの御山の火事に飛んで来た火の玉は、確かにこの観音様だペ、火事であんまり熱いもんで逃げ飛んで来たんだべ。これは火事の守り観音様だ」ということになり、その後観音堂を建て、安置したということである。

そ れからは誰いうとなく、この観音様を「愛宕サマの焼観音」というようになった。いまもこの焼観音様は下半身が焼けたまのお姿で、静かに松風を聞きながら座っておられる。

 御幸山の山火事は二度程あったと昔から言い伝えられてきている。この山火事のとき、御山のお使いである大蛇が太い尻尾をふって鐘をつき、里の人達に大火を知らせたという。雪の降る夜炉ばたを囲み、よく古老からこの話しを聞かされてきた。

 

魔術師の末路

 今から230年前、どこの生れでどこから来たのか、犬飼嘉作という若者がいた。彼は、いろんなことをやって村人を驚かせていた。

集落の人はもちろん石田・御代田・月舘・川俣などよその村の人たちまで、嘉作の話を聴いたり、魔術を見に来る人が毎日のように集まって来た。

 嘉作は特別大男でもなく、見た目は普通の人と変ったところはなかったが、術を施すと全く別人のようになって人びとを驚かせた。

 一升びんの中にかくれてみたり、一晩のうちに稲田を刈り取って見たかと思えば、またあしたそのままの姿の稲が田んぼに実ったままになっている。石垣をくずしたように見せかけてちゃんと石垣を積み上げて置くようなことを、しばしば村びとの目の前で行う。

 ある時は朝飯前に法事の饅頭を取りに仙台まで行って来たこともあった。今から考えて見ると、魔法使というか手品師というか、とにかくだれにも出来ないことを平気でやってのける若者であった。

 精力的に仕事をこなしたし、他人がいやがることを進んでやってのけたので、だれもが親しみをもって彼の術のとりこにされていったのだった。

 

 天保4年7月の暑い日。彼は石田の友だちにお金を貸しておいたので、催促に出かけた。その友だちはうそばかり言って嘉作にお金を返そうとはしなかったので、今日こそは取り返して来るという考えで出かけた。

 石田の友だちは、嘉作を六杯内の野原に誘い、ここで借りた金を、利息をつけて返すという約束をしており、嘉作は言葉を信じて家を出た。

 余り暑くならないうちに友だちにあって話をきめようと思い途中いそいで山道を通って、六杯内に着いた。しかし約束の時がやって来たのに友だちのは来ない。嘉作は友だちが何か用が出来て少し遅れたのかなあと、その辺の草むらに腰をおろして待っていた。

 何時間たっても、友だちはやって来ない。待ちくたびれて友だちの家に行こうかとも考えたが、友だちは嘉作からお金を借りる時、家人には内密に借りるのだから、だれにも話さないでくれといわれたのを思い出して、しんぼう強くもう少し待って見ようと草むらに寝ころんで空を見上げていた。

 しばらくすると、一匹の犬が、急に嘉作にとびついてきた。犬は嘉作の友だちと一緒に来たようだ。友達はほかに知らない若い男をつれていて、しかも鉄砲をかついでいる。嘉作は杉木立の下に立ち上って、友だちらの姿をにらみつけるように見つめた。

 友だちは肩から鉄砲をおろして、弾丸をこめて嘉作の方に向けた。「嘉作よ!!この鉄砲の弾丸を取ってみろ!!うまく取れたら、金は倍にして返してやるよ!」とあざけるようにどなっている。犬は大きくほえかかって、嘉作のまわりを暴れ回っている。嘉作は友だちに騙されたことに初めて気付いた。そしてくちびるをかみしめて弾丸を握る姿勢をとる。

「ズドン!!」大きな音を立てて友だちの鉄砲から火の噴くのが見えた。「ピシャリ」と嘉作の手に銃弾が一発握りしめられる。

 ところが間一髪、またまた 「ズドーン!!」という音と共に一発の弾丸がとんで来た。

 嘉作は全く不意をつかれた。「バタリッ……」と嘉作は地面に倒れた。胸からは赤い血がドクリドクリ流れ出た。嘉作の友だちのあざ笑う声と、犬がはげしくほえる声にまじってカラスが鳴く声をききながら25オの生命を落とした。

 今では彼のために建てられた碑も無くなってしまったが、月舘の犬飼近辺では、嘉作という不思議な若者がいた、という昔話が今でも伝わっている。

 

観音と同室をきらった地蔵菩薩

 上手渡地区摺臼田の丘陵に間口五間、奥行四間ばかりの敷地に草ぶきの御堂があり、片方には小手庄巡礼札所第二十九番の観音さま、狭い廊下を隔てて一方に地蔵菩薩が祀られている。

 なぜ別々の同じ建物に祀られているのか、それには次のようなお話が伝えられている。

 

 御堂の下にユエという神がついているといわれるお婆さんが住んでいた。時折近所を歩き廻っては神のお告げだとして 「昨夜も地蔵さまがわしの夢まくらに立って、同じ家屋の下の狭いところに観音さまと一緒にはおりたくない、といっておったぞ。このままにしておくといつか祟られるぞ。」と叫ぶ。

 近所の人びとも、いつものことゆえまた婆さんはじまったな、と思って聞きながしてはいたものの、あまりやかましくいうものだから、近所の人たちも古い御堂のことでもあるから、いっそこの際建てかえようかということになり、現況のような姿の祠に建てかえられたという。お婆さんは、そのことがあって以来、すっかり叫ぶことはなくなり、一生を送ったということである。

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女神山雨降り石の由来

 女神山頂上西寄りに誰知らぬ人のない雨降り石がある。この石に登れば、必ず雨が降るから登ってはならないと堅く禁じられている疣石である。

 何時の時代から、又どうして雨降り石と呼ばれるようになったかは詳らかでないが、古老の言い伝えによると、今を去る1400年前頃、女神山の中腹には時の王妃小手姫が、糸織りの業を近隣に教えられつつお住いになったと言われ、後崩御になられてその遺体は、高貴なお方故頂上に葬られたと言う。 

 その上に沢山の疣石を積まれたのが今の雨降り石で、疣石に登れば罰が当る、其の罰に雨が降ると伝えられ、現在に至っておるのではないだろうか。現にその周辺を歩けば、空洞を踏むようなごんごんどんどんという音がする。

 

 また一説には、未曾有の干ばつで田んぼの稲は枯れ、畑作物や山野の草木も枯れかけた際、その惨めさを目のあたりに見た小手姫が、お供を連れて女神山上に登られ、疣石に座して雨乞いのお祈りを捧げ雨乞いをしたという話もある。

雨乞いをして暫くすると、西の方から雨雲が広がり盆を覆すような雨になった。周辺農民の喜びは、たとえようもなく、後でその事を聞いた農民は、小手姫の有難さが身に泌みるとともに、小手姫の座した疣石を雨降り石と呼ぶようになったとも伝えられている。

 昭和18年頃の大干ばつでは、地元上手渡は元より糠田下手渡と大勢の百姓がみの笠着用で登山し、神主のお祓を受け雨乞を祈祷共々御神酒をいただきながらその疣石に登って「雨タメ用神ダー西カラ雲ブッ立ッテ雨ザァザァ降ッテコヨー」と連呼しつつ雨乞いをした。

雨乞いをすれば、大抵は雨が降ったという。平時は石に上るものがないよう、囲われ注意書きもなされている。

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出典
月舘町伝承民話集
おらがまちのとおい昔ちかいむかし

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